興産社競馬場(北海道)
1897(明30)〜1904(明37)年

JRA札幌競馬が
中島遊園地(主催:札幌共同競馬会社)にて行われていた頃

札幌市の北に位置する篠路(しのろ)村(後:札幌市と市町村合併)にも競馬場があった


1893(明26)年:青年たちによって競馬会(
篠路兵村競馬会)が組織され、屯田新道にコースを設け人馬一体の競走が行われた
1896(明29)年3月:篠路兵村が後備役に編入され中隊本部も引き揚げとなった
その練兵場跡地に一周約800mの
馬場を造成、開拓記念日の7月15日には草競馬が盛大に繰り広げられた

札幌での“
中央場所”だけでなく
道内各地の農村で祭典に合わせた草競馬も農民の人気を集めていた



1897(明30)年:拓北農場内に
興産社競馬場と呼ばれる一周約1,000mのだ円形の馬場が作られた


当時の農村では、馬は農業に欠くことのできない重要な生産手段であり
どの家でも1頭や2頭の馬を飼育していた
平常時は農耕用として使われていた馬は、秋の収穫期を終え秋祭りになると
今度は競走馬として走り比べが行われたのである

レースは、3〜4頭の馬が馬場を1〜2周して賞金を争ったという
馬は農耕馬、2周もすると大抵へばってしまうらしい
また、当時“チャンピン”(チャンピオンをなまって発音)競走と呼ばれる珍しいレースがあったらしい
レース前に見物人から帽子の中へお金(1人1〜2銭ぐらい)を入れてもらい
レースの結果、1着になった者にその集まったお金が賞金として与えられる
”賭け競馬”の始まりかも知れない


1904(明37)年:
石狩川のはんらんにより堤防が決壊し、水害により兵村を去る人たちが増え始めた
いつしか競馬場も姿を消した



北海道札幌市北区篠路